日本学術会議会員の任命拒否に抗議する声明を発表しました
2020年10月13日
日本学術会議会員の任命拒否に抗議する
岩手県保険医協会
2020年度第6回常任理事会
日本学術会議から会員として推薦されたうちの6名を、政府は首相の名のもとに任命を拒否した。
そもそも、形式的あるいはそれに近い任命にどんな意味があるかというと、そこには学術会議に総理大臣から担保される権威というものが生じる。学術会議の方としても、任命する側に敬意を表してそれを受け入れているわけだ。任命を権力の行使と首相が勘違いするから問題となる。
国から年間10億円の運営費が出ていることについて、会議は身も心も政府に捧げるのが当たり前というような議論がある。確かに、会議は営利団体でもなく直接には利益を生まない。だが、210名の高名な学者が集まって日本のために提言するのに、額として不当でも莫大でもないだろう。河野行革相は、会議のあり方よりも10億円に見合った活動をしているかを俎上にあげるべきだ。
首相の任命拒否は法的に何ら問題はないとか、中曽根元総理の「任命は形式的なもの」という発言を政府は間違いだったと訂正すべきとか、という考えを聞いた。そして、この考えが気に入らないというなら、選挙でそのことを意志表示すればいいともいう。選挙で勝った政党の出す政策には何ら批判をするなとでも言うのだろうか。
また、政府の方針に反対する学者でも任命拒否されていない人もいるから、拒否された6人は政府の方針に反対したという理由だけで拒否されたとは言えない、という考えも聞いた。高度な政治テクニックの積もりかもしれぬが、単に弁解を準備しての恫喝でしかない。
昔、吉田茂という首相がいて、自分の意に沿わぬ学者達を「曲学阿世の徒」と痛罵して地団駄を踏んでいた。政府は、選考を「総合的かつ俯瞰的に判断」と繰り返すだけで、説明を求める世論に対し馬耳東風の体で終始している。いつの世にも政府にとって気に入らぬ学者がいて、そのたびに政府は大なり小なり弾圧してきた。考えようによっては、政府に対して是々非々の学者が常にいた証でもあり、まだ日本も捨てたものではない。
政府を批判する人達をなんらかの逡巡もなく排除することができる姿勢は、政治的に未熟な国つまりは非民主的な国のとる姿勢だ。選挙に勝てば何をやってもいい、法に則っているといえば何でも正当化される国。政府に反対したかったら、選挙で勝って言えばいいと選挙至上主義を唱える少数派無視の態度。法を盾にして道徳観や倫理性を二の次に置くことに羞恥を覚えない、こんな世にしてきたのが今の政府だ。マルクス・ガブリエルは著書で「民主主義の基本的な価値観はコモンセンス(良識)なのです。」と言うが、そうなのだろう。
今回の任命拒否の仕方は、丁寧な説明よりも政府の意志の断行を優先しており、国民を冒瀆している。強権を発動して自らを顧みない政治が、国を発展させていける筈がない。権力者は説明に窮すると「歴史が判断してくれる」と言う。国民に窒息感を与える政治姿勢が国の前途を誤るというのも、歴史の教えるところだ。
今回の件は、日本の未来を占う上で極めて象徴的である。