「社会保障」に死生観の隠し味を加味せよ(18~19年度 第1回保団連代議員会 発言通告)
発言テーマ:「社会保障」に死生観の隠し味を加味せよ
社会保障関係予算は、一般会計歳出額の1/3を占める。保団連あるいは各協会・医会の姿勢は創立以来足並みを揃えて、社会保障の予算の拡大ないしは縮小阻止を訴える。
本年5/31付け毎日新聞によれば、同新聞社の調査で、救命救急センターのうち49病院で昨年、回復の見込みがない終末期に患者への延命治療を取り止めており、回答した病院の7割を占めたとのこと。刑事責任を「恐れて」いる実状もあり、実際はさらに多いとみられる、としている。
また、本年5/26、ある大企業の元トップが胆嚢がんのため死去したが、その際の「終活」がおおきな反響を呼んだ。がんであることを新聞広告で公表し、「生前葬」まで開き、延命治療を受けないことも明らかにした。医療が進歩したせいなのだろうが、死生観が多様化する昨今、「生活の質(QOL)」を重視した終活と関心を呼んでいる。ちなみに、享年81。
延命という語に「ムダな」とつけると二重形容になりそうな向きもあるが、ムダではない延命措置を含めて必要か否かを決断を迫られるときに登場するのは、死生観であろう。「社会保障」と死生観を結びつけて考えるのは、ひとによってはかなりの飛躍を要するかもしれないが、現実には密着している。死の間際になるほど、熟慮できなくなる。
最近は「人生100年時代」という言葉がはびこってきた。「歳をとったら、一日一日を悔いのないように過ごせ」という。そして、医療・福祉・介護・年金などの負担増や人材不足から超高齢社会を否定的にとらえているのでは、という指摘もする。ポジショントークではないのか。まず健康寿命と平均寿命を接近させることが、受け入れやすい医学の進歩だ。
終末期に際し、単に生命の長きを尊ぶか、延命治療の苦しさの短きを重んじるか、「QOL」に配慮した死生観を元気なうちから醸成していって(宗教的な問題もあろうが)、それを各自が頭の片隅に置いて「社会保障」を論じるべきだ。
代議員会なり大会なりで「死生観」を議論することは余り意味はない。堂々巡りすると分かっているような議論は最初からしなくてもいい。だが、全く感じさせない意見は底が浅いものとなろう。執行部の一員の方の個人的見解の一片でも結構なので、お考えを伺いたい。